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今回の哲学ワード
「愛国心というと、しばしばもっぱら、異常な献身や行為をしようとする気持ちだと解される。」 ヘーゲル(1770-1831)
サッカーとコロナと愛国心?
こんにちは、哲学マダム❛月子❜です。緊急事態宣言が解除されてからもうすぐ一か月がたとうとしていますが、いかがお過ごしでしょうか? 新型コロナが流行る前と後とでは、世界が違って見えるのではないでしょうか?
約半年ぶりに、ひとりでたまプラーザの街を哲学ウォークしてきました。「哲学ウォーク」については、「第1回 ひとり哲学ウォークin たまプラ」をご覧ください。
今回の哲学ワードは、ドイツの哲学者ヘーゲルのこの言葉:
「愛国心というと、しばしばもっぱら、異常な献身や行為をしようとする気持ちだと解される」
「愛国心」なんて、聞いただけで引いてしまいそうな言葉が、いきなり出てきましたが、へーゲルのいう「愛国心」は、私たちが通常抱くイメージとは少し違います。ヘーゲルによれば、愛国心とは、何か異常な情熱を表明したり、犠牲を捧げたりするものではなく、共同体が大切な基盤であることや、共同体の目的をちゃんと理解して日々淡々と秩序を守って生活する心的態度だといっています。今回、新型コロナウイルスが世界的に流行するさなか、偶然ヘーゲルを思い出す場面がありました。
それは、ちょうど政府が全国の小中学校、高校、特別支援学校に休校要請するというニュースが流れたその日に開かれた哲学カフェで、サッカーチームにファンが自分を同化させてしまう現象について書かれた本の紹介があった時でした。ファシリテーターを務めていた私は、とっさにヘーゲルが頭に浮かびましたが、話が盛り上がっていたので口を差し挟むことはぜず、そのまま時間切れになってしまったのでした。
そもそもサッカー自体が❛愛国心❜と結び付きやすいこともよく言われています。ファンが相手チームやそのファンに対して差別的な態度で騒ぎを起こし、ペナルティとして選手たちに無観客試合をさせる事態になったという話を聞いたことがある方も多いでしょう。
ヘーゲルも国家が危急存亡の時は、市民は国と一体化し、自らの権限を犠牲にするのダーみたいな、アブナイ(?)ことを言い出す人ですが、一方で「愛国心」については、もう少しマトモなことを言っています。それが先程の冒頭の言葉です。
公園でヘーゲルとともに哲学
今回哲学ウォークで向かったのは、駅北口から西の区域。6月のたまプラーザは晴れれば相当蒸し暑く、涼を求めて思わず立ち寄ったのが、こちらの緑多き公園。
そこには、子どもが遊具で遊び、そばで母親が見守るという、ごく日常の風景がありました。しかし私には、このありふれた風景がとても愛おしく思えました。
コロナ自粛期間中に、一般市民が他の市民を自主的に取り締まる「自粛警察」が各地で現れました。「自粛警察」が、コロナを広めていそうな不埒な輩を、頼まれてもないのに取り締まるのは、自分の健康のためという以上に日本社会のためであると言うでしょうし、つまりそれは❝愛国心❞ゆえ、ということになるでしょう。
でもそれは、ヘーゲルの愛国心とはちょっと違うような気がするのです。例えば、子どもが密集してウイルスを広めるからといって、東京都内のどこかの公園のように、遊具を封鎖してしまうことが愛国心ゆえ、とはとても思えないのです。
冒頭の一文の少し先で、ヘーゲルは次のような意味合いのことを述べています(かなり噛み砕きます):
――たとえば誰もが夜、街を歩いても安全であることに、慣れ切ってしまっている。まるで最初からそうであったかのように。安全でないこともありうる、ということを、人々はすっかり忘れてしまっているのだ。このような安全性は国家権力が強いから可能なのだ、と思われがちだが、実は人々の秩序を重んじようという、誰でも持っている基礎的な感情に支えられているのである――
ヘーゲルが言っているのは、公園の例に当てはめれば、最初から公園が当たり前のものとしてそこにあり、誰もがいつでも自由に使用できると思わないこと、だからこそ、誰もがいつでも自由に使えるように普段から地道に秩序を大切にすること、それが愛国心なのだというのです。
間違ってはならないのが、「人々の秩序を重んじようという基礎的な感情」が「自粛警察」のようになれ、ということではないということです。愛国心とは普段、私たちの心の奥底に深く横たわっていて、地道に秩序を守って生活していこうという心意気なのです。
間違った❝愛国心❞には子どものような、より弱き存在に向かう傾向があるようです。
公園封鎖の声は、都内の極端な住民の話かと思っていたら、残念なことに私の近所でもありました。「休校中の子どもが公園に集まっているから使用中止にしろ」と管理会社や自治体に「通報」があったそうです。でも管理会社および自治体からの回答は「禁止にはできない」というものでした。その代わり、「マスクをして遊ぶように」と呼びかけるポスターを周囲に貼ることになりました。自治体内に、まだまともな感覚の持ち主がいてホッとしています。
子どもの居場所をなくさせる人は、その先の社会がどうなってしまうのか、想像できていないのでしょう。そのような人はまだ本当の意味で愛国者ではない、ということになります。公園封鎖を要求する前に、もっとできることがあるはず。例えば、自分がウイルスを媒介しないよう気を付ける、仕事を休めない人がどうすれば休めて社会全体のリスクを下げられるのか、一緒に考えて行動に移していく、等々・・・
公園の脇にはグラウンドが併設され、サッカーのユニフォームを着た子どもたちが元気にボールで遊んでいました。グラウンドで無邪気にボールが蹴られるのも、もともとそこに公園が当たり前のように存在し、自由に使えていたからではないのです。
間違った❝愛国心❞を振りかざして、公園やグラウンドを使えなくしたり、サッカーの試合をペナルティで無観客にされたりしないようにしたいものです――自戒もこめて――。
コロナの前と後とでは、公園一つとっても見る目が変わってくることでしょう。
出典:ヘーゲル『法の哲学』
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