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出産後、介護の世界へ
結婚・出産で仕事を辞めた時、思ったのは「よーしこれからは介護だ!」でした。そして当時の職業訓練給付金でヘルパー2級を取得。
子供が幼稚園になり少し時間ができたときからホームヘルパーを始めました。その後、少しずつ時間の余裕ができたので、老人ホームでパートを始め、どうせならと、介護福祉士と、福祉レクリーエーションワーカー、元気なお年寄りを増やしたいと、介護予防運動指導員の資格も取得しました。
私の介護の仕事は10年以上になります。特別養護老人ホーム・介護老人保健施設・有料老人ホーム・デイサービス。ほとんどを経験し、認知病棟にも勤務し多くの方を看取りました。
いろいろな学びがあり、父親の介護に役立ちました。
地域に見守られていた父
ここからは少し「想い出話」にお付き合いください。
私の母は平成7年10月にくも膜下出血で倒れました。一命は取り留めたもの、手術中にピンで止めた血管が破裂し、帰らぬ人となりました。
当時の私はやっとそれなりのお給料ももらえ、これから親孝行をしようなどと思っていた矢先の出来事でした。残されたのは父と弟だったので、栃木の那須の実家に帰ることも考えました。しかし、結果的には帰らずに遠くからフォローすることにしました。弟が大反対したからです。「私には私の人生があるから、自分たちのために犠牲にして欲しくない」と。
私の父親は私が中学3年生の時、胃がんになり、胃の3/4を切断しています。母が食事には気を使っていたので、母亡き後は、2人で一生懸命食事を作っていたのを覚えています。私は月1回くらいの帰省でなんとかすませていました。その後、弟が結婚して家を出てからは、帰るたびに布団干しなど、普段できない事をしていました。
月日が流れ、父は東日本大震災の後、胆のう癌になりました。癌の発症後、言うことに少し辻褄が合わないことがあり、私の経験上認知症だと思ったので、脳の萎縮をMRIで確認してもらいました。医者の判断は「中度のアルツハイマー型認知症」でした。
普通では一人暮らしは心配なところです。それでも老人ホームに入れることには私は反対で、それならば。と、週に1〜2日。何かあると多いときは3日実家へ様子を見に行ったり、姉と弟と順番に電話をしたりしました。
胆のうを全摘出したものの数年後、肝臓に転移、母が亡くなってから20年後の平成27年、姉と弟、私の子供たち3人に看取られ旅立ちました。
およそ20年間の男性高齢者一人暮らしで、どれだけ地域の方のお力をお借りしたことか…「感謝」の一言では、言い表せません。帰省した折にはタイミングが合えば民生委員さんを訪ね、父の様子を聞き、何かあれば連絡が欲しいとお願いしてきました。
独居老人男性はプライド高いのです。しかも頑固。民生委員さんにはお手数をおかけしましたが、「娘さんが心配して連絡くれたんです」と、全てを私のせいにしてもらっていました。
私の実家の民生委員さんはご近所さんで私が小さい頃から顔見知りでした。帰省した際や、偶然会った時などはお互いに声をかけられる関係だったのです。ありがたいことに、父は地域でみまもられていたのです。
衝撃的だった叔父の死
父のお通夜の時、久しぶりに親族が集まりました。その時、久しぶりにあった父の弟(叔父)の様子が変でした。娘が「靴下…左右違うの履いてるよ」と最初にいいました。
お通夜だから急いで来たわけではなさそうで、それとなく様子を見ていました。叔父も認知症だったのです。長期記憶はあるものも、短期記憶が全くダメなようでした。兄である父が病気だったのはわかっていたのですが、亡くなった話は何度伝えても初めての話のようになっていました。どうして今ここにいるのかもわかっていたり、いなかったり、忘れてしまったり。。。
仕事柄そういう方と接していたので、対応に困ることはありませんでしたが、結局、「大変ですよね」とお通夜も、葬式も滞りなく終わりました。
それから1年と少し経った頃、叔母から電話が入りました。「叔父が亡くなって明日がお葬式です」と。
「急にどうされたんですか?ご病気ですか?」電話は私にとっても衝撃的な事でした。
「実は、去年の12月から行方不明で、2月になって山で見つかった…」と。
叔父は認知症で、一人歩きをしており、そのまま行方が分からなくなりました。もちろん家族は捜索願を出しましたが、年が明けても見つかりませんでした。
山といっても私の知っているその地域は山登りとかをするそんな山ではありません。その年は雪が割と多く降った冬でした。叔母も「警察から連絡があってね…」と、あまり詳しくは語りませんでした。
わかったことは、
「一人歩きをして、行方不明。2ヶ月後に遺体で発見された」
という事実でした。
みまもりあいアプリで助け合おう
父の最期は癌で子供達に看取られ旅立ちましたが、叔父の最期は誰にも看取られない、悲しい最期だったのです。
私は自分の父親には、最大限出来ることを考え、実行しました。それに比べて叔父には何も出来ませんでした。こういう結果で、自分を責めている訳ではありませんが、どうしても、考えずにはいられないのです。
一人の力ではどうしても限度があると思います。近くに住む人に「何かあれば気にかける」そんな当たり前だと思うことも現代社会では希薄になってきているような気がします。しかし、気持ちはあるのに表現しにくいだけで、人は誰しも「相手を想いやる気持ち」を持っています。何かのタイミングで一声かけたことで、別の結果が生まれて来ることもあると思っています。
その気持ちを力に変えたい。それが、私が「たまプラーザ・みまもりあいプロジェクト~やさしさのエネルギーチャージ~」を世の中に拡めたい理由です。
助けてもらいたい誰かと、助けてあげたい誰かの気持ちが、アプリを介して通じ合う。そして、誰かの大事な人を地域みんなでみまもっていくツールの一つとして活用する。〜やさしさのエネルギーチャージ〜良いと思いませんか?
最後になりましたがこの「みまもりあいアプリ」は厚生労働省H28年度介護ロボットを活用した介護支援技術開発支援モデル事業であるとともに、私たちの「たまプラーザみまもりあい♡プロジェクト〜やさしさのエネルギーチャージ〜」は令和元年青葉未来おこし補助金の採択事業でもあります。
近い将来、このみまもりあいのアプリが携帯に最初からインストールされ、私たちプロジェクトメンバーは使い方だけを皆さんに伝える人になっていることを願っています。